
私が医師になった頃、アルツハイマー病は「治らない病気」の代表格だった。もちろん現在でも根本的に治癒させる治療法は確立されていない。しかし、この二十年ほどの間に、この病気に対する考え方は大きく変わり始めている。いや、「変わった」というより、「変わらざるを得なくなった」と言った方が正確かもしれない。
教科書に書かれていることが十年後には書き換えられていることなど珍しくもない。例えば、胃潰瘍がストレスの病気と考えられていた時代があった。胃がんも生活習慣だけが原因と考えられていた時代があった。しかし、ヘリコバクター・ピロリ菌の発見によって、その常識は大きく覆された。アルツハイマー病も、今まさにその転換期にあるように思う。認知症にはいくつかの種類があるが、その約六~七割を占めるのがアルツハイマー病である。高齢化が進む日本では患者数は年々増加し、本人だけではなく家族や介護する人々の人生にも大きな影響を及ぼしている。外来でも「最近物忘れが多くなった」「同じ話を何度も繰り返す」「財布や鍵をなくしたことを人のせいにするようになった」といった相談は決して珍しくない。患者本人よりも、ご家族の方が先に異変に気付くことも多い。そして診断がついた時、ご家族から最も多く聞かれる質問は、「何とか治す方法はありませんか」という言葉である。医師として、その気持ちは痛いほど分かる。
だからこそ、この病気の研究は世界中で続けられてきた。長年、アルツハイマー病の主役と考えられてきたのが「アミロイドβ」という蛋白質である。脳の中に異常なアミロイドβが蓄積し、それが神経細胞を障害し、やがて記憶や判断力が失われていく。この「アミロイド仮説」は約四十年にわたりアルツハイマー病研究の中心となってきた。もちろん、この考え方には十分な根拠がある。患者の脳にはアミロイドβが沈着している。遺伝性アルツハイマー病ではアミロイドβの産生に関わる遺伝子異常が見つかっている。動物実験でもアミロイドβの蓄積によって神経障害が起こることが確認されている。だから世界中の製薬会社が、「アミロイドβを取り除けば病気は止められる」と考え、新薬の開発に莫大な資金を投入した。そして近年、ついにアミロイドβを標的とした抗体医薬が実用化された。これは間違いなく医学の大きな成果である。ところが臨床試験の結果を詳しく見てみると、期待されたほど劇的な改善は得られていない。病気の進行を遅らせることはできても、失われた記憶を取り戻すわけではない。症状が完全に止まるわけでもない。
ここで研究者たちは一つの疑問を抱くようになった。アミロイドβは本当に「原因」なのか。それとも病気の途中で現れる「結果」の一つなのか。もちろん現時点では答えは出ていない。しかし、この問いがアルツハイマー病研究を新しい方向へ導いたことは間違いない。その一つが「神経炎症」という考え方である。

脳にはミクログリアという免疫細胞が存在している。このミクログリア(小膠細胞)は、「脳内のマクロファージ(常在性マクロファージ)」であると説明してきたはずだ。以前は、脳は免疫とは無縁の特別な臓器だと考えられていた。しかし現在では、脳にも活発な免疫システムが存在し、その働きが神経細胞の運命を左右することが分かってきた。ミクログリアは本来、脳を守る番人である。
不要になった細胞を掃除し、異物を排除し、神経細胞が正常に働く環境を整えている。ところが慢性的な刺激を受け続けると、この番人が暴走する。必要以上に炎症性サイトカインを放出し、かえって神経細胞を傷つけてしまうのである。まさに味方が敵へ変わってしまう現象だ。
この神経炎症がアルツハイマー病の進行に深く関与しているのではないかという研究が、現在世界中で進められている。
さらに興味深いのは、この神経炎症が脳の中だけで完結しているわけではないという点だ。
以前から本コラムでも紹介してきたように、腸内細菌は免疫を調節する重要な役割を担っている。
最近では、腸内細菌の変化がミクログリアの働きにまで影響することが報告されている。
「腸で起こったことが脳へ伝わる。」
一昔前なら突飛な話として片付けられたかもしれない。しかし現在では、「腸脳相関」は神経科学の重要な研究テーマになっている。
歯周病菌など口腔内細菌との関連を調べる研究も進んでいる。慢性的な歯周病が全身の炎症を引き起こし、それが認知症のリスクに影響する可能性も指摘されている。
さらに糖尿病との関係も見逃せない。

糖尿病患者ではアルツハイマー病の発症リスクが高いことが以前から知られているが、最近ではアルツハイマー病患者の脳ではブドウ糖の利用効率が低下していることも明らかになってきた。
そのため、「タイプ3糖尿病」という考え方まで提唱されるようになった。
名称については賛否あるものの、「糖代謝の異常が脳機能に深く関与する」という点については、多くの研究者が注目している。
睡眠も同様である。睡眠中には脳内の老廃物を排出する仕組みが活発に働くことが分かっている。睡眠不足が続けば、その機能が十分に働かず、神経変性疾患との関連が議論されるようになった。
つまり、アルツハイマー病は決して脳だけを見て理解できる病気ではなくなってきたのである。
免疫、代謝、血管、腸内細菌、口腔内細菌、睡眠、慢性炎症。
これらが複雑に影響し合いながら、一つの病気を形作っている可能性が見えてきた。
だからといって、従来の治療を否定するつもりはないのだが。
アミロイドβ研究があったからこそ、現在の知見が積み重ねられたのである。医学は一つの仮説が失敗して終わる世界ではない。その仮説を土台として、さらに次の仮説が生まれ、少しずつ真実に近づいていく学問なのだ。

アルツハイマー病研究は、今まさにその過程にある。私は、この流れをとても興味深く見ている。病気を一つの臓器だけで考える時代から、全身を一つのネットワークとして考える時代へ。そんな医学の転換点を、私たちは目の前で見ているのかもしれない。
次回は、この中でも特に興味深い「アルツハイマー病は脳の糖尿病なのか」というテーマを取り上げたい。糖尿病治療薬が認知症にも応用できる可能性や、「タイプ3糖尿病」という考え方がどこまで科学的に支持されているのかを、現在の知見をもとに考えてみた。