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石井先生が金田先生に初めてお会いになったのはいつですか。

石井:気仙沼での研修医時代ですね。1990年だったと思います。宮城県北部の病院に勤務する医師が集まり、あまりうまくいかなかった症例などを持ち寄って検討する会があり、そこに研修医もくっついて参加していたんです。そこで初めてお目にかかりました。お目にかかったといっても、私は1989年卒ですし、金田先生をはじめ、そのときに部長や副院長の先生方は1972年卒ぐらいの方々で、15年以上20年近く上の先生方ですので、隅っこのほうで小さくなっていました。

金田:全く印象にないな。石井先生が石巻(赤十字病院)に本格的に勤務することになる前に半年ぐらい来たことがあったね。卒後5、6年の人たちが半年交代で来ていたことがあって、石井先生もその一人だった。そのときに初めて一緒に仕事をした。

石井:医局のローテーションの人事があり、6カ月か3カ月交代で外の病院に行くというルールがあったんです。それで私は石巻に行けと言われ、1993年の1月から5月までの5カ月間、お世話になりました。

金田:普通は半年間なのに、5カ月間?

石井:大学院に入ることになったので、6カ月の予定が1カ月前倒しになったんです。

そこで金田先生から色々な教えを受けられたのですね。

石井:それはもう色々と(笑)。

金田:教えというより、私が一方的にいじめていた(笑)。

石井:罵倒ですね(笑)。僕だけじゃなく、皆さんが罵倒されていた。

金田:今なら明らかにパワハラであり、私は譴責されて、クビが飛んでいた(笑)。

石井:それはないと思います。

愛あるご指導だったんですよね。

石井:愛はあまりありませんでした(笑)。

金田:愛はなかったんじゃないかな。

石井:愛はないですよね。先生。単純に不愉快だから「お前はアホ」とかおっしゃっていたのでは。

金田:教育的という面は1割ぐらいはあるかもしれないけれども、ほとんどは私の感情の発露であって、皆さんは被害者ですよね。

石井:弟子は皆が被害者ですよ。

金田:そこはものすごくフェアだったんですよね。依怙贔屓はしないです。

石井:依怙贔屓はありました。女性には優しかったです(笑)。

金田:女性には基本的に優しい。女性まで罵倒したら、パワハラのうえにセクハラも加わる。2倍になるとまずい(笑)。

石井:そこにいる石橋先生にも優しかった。優秀な人たちにも怒っていなかったです。

金田:あなたは優秀じゃなかったんだよ。

石井:おっしゃる通りです。

金田:要するに、今から振り返れば昔の教育は極めてまずいものだったと思う。その後、方針を2001年頃に急に変えた。石橋が来た頃だね。

石橋:私が来たのが2001年です。

石井:僕は2002年に来たけど、そんなことはなかったですよ。

金田:あなたは教育の対象ではなかったからね。石井先生が2002年に来たときはスタッフとして来たのであって、研修医ではなかった。教育の対象でも、むろん同僚でもなく、部下ではあるけれども、教育の対象ではなかった。石橋も教育の対象ではないよ。でも、部下という者への接し方についてもずっとあとになってから反省した(笑)。

若い方への接し方を変えられたのは何かきっかけがあったのですか。

金田:2001年頃に教育者を教育するセミナーが富士山麓であり、1週間ほど缶詰めになって、そのセミナーを受けたんです。そこでエデュケーションの効果を上げるためのスタンスを学び、私自身が教育者として極めて不適切だったことを悟りました。でも、そうやって酷いことを言ってきたにもかかわらず、皆が逃げていかなかったのはなぜなんだろう。何かの宗教のように、マインドコントロールに遭うと逃げられないということかな。

石井:僕はほうぼうで言わせていただいているし、先生のご指導の件はこのサイトでも散々暴露しているのですが、「じゃあ、なぜ金田先生についていったのですか」と聞かれるんですね。これは真面目な話で、先生に面と向かって申し上げるのは恥ずかしいのですが、世の中には「正しいからする人」と「得になるからする人」の2通りの人がいて、先生は必ず「正しいからする人」だと思っていたんです。だから、いくら怒られても仕方ないと捉えていました。

金田:それは買いかぶりすぎだよ。正しさも求めていたけれども、単に感情の発露であって、本当に正しいかどうかを判断する理性はなかったね。

石井:いえ、それは違いますよ。

金田:君たちはそれに対処させられた、極めて気の毒な人であったと言わざるをえない。それに、僕が厳しく接した人たちの中に、今は指導医として下の先生たちに厳しく接している人がいると聞いたことがある。「親の因果が子に報う」のように、2世代に渡って被害に遭っている人たちがいるのは自分の罪深さを感じる(笑)。それに私は依怙贔屓をしていないつもりだったけれど、石井くんの目にはそう見えていないんだな。評価というものは下からの目線での評価のほうが正しいはずだから、私はフェアではなかったということになる。

石井:そう言われると、そうかもしれません(笑)。

石井先生と石橋先生が初めてお会いになったのはいつですか。

石井:今でも覚えているんですが、卒後4年目に1日ほど、古川市立病院(現 大崎市民病院)に手伝いに行けと言われて行ったときです。そこに親分の並木健二先生(現 大崎市病院事業管理者)がいらして、「おい、飲みに行くぞ。うちの1期生に気仙沼での研修の話をしてくれ」と言われたんです。並木先生の研修先も気仙沼だったんですよ。当時、古川市立病院には初期研修の歴史がなく、石橋先生が1期生だったんですよね。

金田:石橋は古川の1期生なのか。

石橋:そうです。でも私はそのときのことはあまり覚えていないですね。石井先生とは昔から色々な場面で一緒に仕事をしてきたなという記憶はあるのですが、一つ一つの記憶はあまりないんです。

石井:僕は石橋先生の印象は色々と強いです。見ての通り、ハンサムじゃないですか。すごい人気があるんですよ。一方で、僕は人気がないので、陰日向の日向担当が石橋で、陰担当が僕みたいな立ち位置でした。学年は2つ違いで、東北大学総合外科(旧 第二外科)の亀井尚教授と石橋先生が同級生でした。

石橋:私は大学卒業後、古川市立病院に3年いて、1994年に東北大学の第二外科に入局し、2001年に石巻に来ました。「金田先生のもとに行け」と言われて、「はい」と言って来たんです(笑)。

石井:僕が本格的に石巻赤十字病院に勤務したのは2002年から2012年までで、10年間お世話になりました。僕はいつも怒られるパターンで、石橋はあまり怒られず、色々と任されるパターンでした。それから乳腺外科を専門にしていらした古田昭彦先生もいて、医療社会部長を務めておられたのですが、石巻赤十字病院に乳腺外科を立ち上げることになったので、「古田の代わりに医療社会部長をやれ」と言われたんです。最初は「えー」と抵抗したのですが、「いいからやれ」と言われて、医療社会部長になりました。ここから災害医療の世界に足を踏み入れたという感じです。

石井 正教授

東北大学 卒後研修センター

1963年に東京都世田谷区で生まれる。1989年に東北大学を卒業後、公立気仙沼総合病院(現 気仙沼市立病院)で研修医となる。1992年に東北大学第二外科(現 先進外科学)に入局する。2002年に石巻赤十字病院第一外科部長に就任する。2007年に石巻赤十字病院医療社会事業部長を兼任し、外科勤務の一方で、災害医療に携わる。2011年2月に宮城県から災害医療コーディネーターを委嘱される。2011年3月に東日本大震災に遭い、宮城県災害医療コーディネーターとして、石巻医療圏の医療救護活動を統括する。2012年10月に東北大学病院総合地域医療教育支援部教授に就任する。現在は卒後研修センター副センター長、総合診療科科長、漢方内科科長を兼任する。

日本外科学会外科専門医・指導医、日本消化器外科学会消化器外科専門医・指導医、日本プライマリ・ケア連合学会プライマリ・ケア認定医・指導医、社会医学系専門医・指導医など。

金田 巌教授

石巻赤十字病院

1947年に山形県西置賜郡白鷹町で生まれる。1972年に東北大学を卒業後、研修医を経て、東北大学第二外科に入局する。1983年石巻赤十字病院に外科部長として着任する。2012年に石巻赤十字病院院長に就任する。2018年3月に石巻赤十字病院院長を退任する。現在は石巻赤十字病院で非常勤医師を務めている。

石橋 悟教授

石巻赤十字病院

1967年に青森県八戸市で生まれる。1991年に旭川医科大学を卒業後、古川市立病院(現 大崎市民病院)で研修を行う。1994年に東北大学第二外科に入局する。2001年に石巻赤十字病院小児外科に部長として着任する。2006年に石巻赤十字病院医療技術部長に就任する。2007年に石巻赤十字病院救急部長兼医療技術部長に就任する。2011年に石巻赤十字病院救命救急センター長兼医療技術部長に就任する。2014年に石巻赤十字病院副院長兼救命救急センター長兼医療技術部長に就任する。2018年に石巻赤十字病院院長に就任する。

臨床研修協議会臨床研修プログラム責任者、臨床研修指導医、宮城県難病指定医、宮城県小児慢性特定疾病指定医、宮城県身体障害者福祉法第15条第1項指定医師など。